Vol.30 ◆「混浴」−人類永遠のテーマとしての功罪−
【その二 私の混浴温泉露天風呂愛好志向をもとに】
日本人には欧州とかアジア地域に住む人達と比べ、際立って異質で特殊性を誇る様々な入浴習慣が存在する。
昨今のTVバラエティ風の面白おかしく軽薄なセンスでは、入浴文化の本来の奥深さを語る資格はない。特に、世界に誇るべき混浴の行動様式とか生活に溶け込んだ背景はさらに繊細で深淵であるのだ。
さて、私の全国をそして欧州を旅しての混浴体験を語ろう。
温泉入浴の医科学的な効用を探ってきた立場上、これまで海外の各般の人達からその入浴習俗を尋ねられ、教えてもきたが、外国人の質問には誤認が多い。
日本の「混浴」の意味を説明すると、年齢を問わず、見ず知らずの男女が同じ浴場で入浴する情景を指すのが定説で、夫婦とか家族といった親戚集団の構成は別である。そして、一般の家庭風呂の入浴単位は含まれないのである。
つまり、あくまで混浴の原風景は自然豊かな温泉露天風呂か温泉大浴場で展開される入浴環境を示すのが基本である。
広い空間・豊富な源泉・岩風呂などで演出され、多彩な景色が入浴位置で変化し、俗に“かけ流し”と言われる大量の温泉が常時溢れる状態が現代日本人の大方のイメージである。
混浴はこうした環境から生まれるのであり、男女が自然な姿で入浴を楽しむことが出来るのだ。
ここで大切なことは、江戸末期にペリーにより書かれた『日本遠征記』や当時のアメリカ系の混浴見聞録に多くの偏見が描かれているように、日本人は裸になる羞恥心を感じない民族であると、為政者とした上から目線で見ようとする傾向が強くあり、これでは正しく理解されない筈で注意をする必要であるということだ。シャワーを浴びるだけで入浴の習慣の少ないアメリカ系の人達の評価には、誤りが多いのだ。
一方、世紀を超えた入浴文化を持つゲルマン系・ドイツ語圏の人達の見方は参考になる。混浴は単なる日本人の裸文化ではないという見方だ。
温泉混浴を日本人の文化として奥深く分析した明治天皇の侍医ドイツ人トク・ベルツ、医者であり博物学者のケンプフェル、長崎でオランダ医学を教えたポムペとシーベルトらの分析は鋭い。
以上のことや現代的な精神医学から眺めて、私なりに日本人の混浴志向について考えてみた。
第一に、温熱浴による血の巡りの慣性(血流効果)による健康づくりを意識し、裸での温泉入浴に独特な体感を味わおうとすること。
第二に、温泉に浸り周囲のせせらぎや野鳥の鳴き声など、自然音と風景を肌で感じるといった豊かな温泉入浴環境による刺激は、男女の羞恥心を超越して一人の人間に帰る、いわば温泉入浴の快感を胎児が胎内の羊水に浮かぶ快適感(フロイドの「胎児羊水回帰願望説」)に近い感じを混浴で味わい、また求めていること。
第三に、福沢諭吉も好んで引用したが、男女が性差を超え、貧富と階級を超え、互いに裸のお付き合いのできる混浴の習慣は、日本人だけが持つ自由平等の本髄だということ。
第四に、霧島温泉(鹿児島県)や登別温泉(北海道)の著名な混浴場の深さはやや深めの1〜1.5メートル、乳頭温泉(秋田県)は白濁の露天風呂というように、温泉そのものが自然の遮蔽を作り出すことで、混浴に抵抗感のない解放感を醸し出しているということ。
また、混浴ならではの語らいは格別である。私が経験したドイツの温泉プールの混浴では他人同士が語り合うことはあまりないが、日本では性意識や羞恥心を超えた温泉での語らいを性別・年齢を超え、誰もが楽しんでいる。
精神衛生的にも、日本の温泉混浴システムによるストレス解消への強烈な解放感は、日本人の国民性の底力であり、他に例がない。
日本人に辛苦の後の最高の癒し行動を尋ねると、裸で入る温泉であり、混浴露天風呂との回答が非常に多い。
衛生管理意識の基本は利用する各人の心がけが大切であり、淫らな行為を互いに戒める自戒自警意識で十分である。法で取り締まろうとする混浴規制の歴史がすべて失敗に終わっているのは世界の歴史でもある。
(次回に続く)
それにしても、今年の夏も節電が求められそうだが、節電対策にかこつけて、暑い都会を抜け出して、ランプがひとつ灯るだけの山深い露天風呂に行ってみたいものだ。妖艶なご婦人との混浴なら、なおいい。なんて、すっきりしない梅雨の時期は、妄想ばかりが膨らんで...。いや、失礼。ではまた。
(1206-030)