Vol.25 ◆「京都五山送り火」の仏教の本質が問われているその光と影」
−門火(かどび)騒動で垣間見た“覚めた京都人の宗教心”−
お盆に迎えた先祖の御霊を送る「平泉大文字送り火」(岩手県平泉町)と「地福寺の送り火」(宮城県気仙沼市)に多くの国民は、東日本大震災の犠牲者を供養しようと手を合わせたに違いない。しかし、今年に限って「京都五山送り火」に思いを巡らす人は殆どいなかったと思う。その理由は、「京都五山送り火保存会」の判断に、門火のもつ伝統的宗教行事の本質的な認識の欠如が露呈したからで、残念至極だ。
放射性物質の風評を恐れた。ただそれだけで「高田松原」(岩手県陸前高田市)の松で作った送り火用の薪の受け入れを拒否されたわけだが、東日本大震災の被災者は、激昂するでもなく粛々と地元の門火行事に切り替え、先祖の御霊とともに2万人ほどの震災の犠牲者・行方不明者の御霊に手を合わせた。それだけに、衷心より亡き人への想いと供養の心に悔悟の念と敬意を払いたいのだ。
この思いは報道機関も、「京都人の複雑な感情」と言葉を濁し当惑気味だ。
そこで将来のため、京都人の性格・特性について私見を交えて指摘し、猛省を促したい。
第1に、国民の抱く京都人に対する印象は、天皇家伝来の歴史文化・宗教の所産を守り育ててきた土地柄と接し方に尊敬を持ってきた。だからこそ世界に誇る資産は第二次大戦中、米国の配慮で戦災を逃れたが、国民は妬むのでなく京都人を加護する気質が根底にあった。第2に、近代史上この地での政変時でも大きな被害の例は稀有であった。それ故、京都人には他人の痛みに不感症のキライがある。第3に、有史来、神教でも仏教でも日本で土着的な宗教を育ててきた厳格で厳しい背景の道筋には汗とは無縁である。第4に、厳しい土着的な自然への向き合い方を身につけてこなかったためか、他人に肩を貸す気持ちが不足している。
保存会有志の判断を即京都人とはみていないが、京都市民の間にも汚染を危惧する人もいたと聞く。だが、門火行事は純然たる伝統的宗教行事のはずだ。もし、門火行事が単なる観光行事ならCO2 問題を理由に全面廃止も可能だろう。仮に五百や千本の護摩木で産出する放射能物質がどれほどの“京都汚染”となり、どのような風評になると言うのか?
反論があれば必要な主張と弁明をすべきであり、あるいは公開討論等で説明責任を果たすべきだ。敬愛する京都人の真摯な対応を望みたい。
それにつけても、送り日が終わればもう秋の気配が・・・というのは昔の話。ここ数年の夏のナント暑いことか。これにはお盆に帰ってきた死者の魂も、現世からあの世へと帰る時はきっと汗だくになっていたに違いない?では、また。
(1110-025)