Vol.45 ◆ルネサンス期の「万能人」と呼ばれるミケランジェロ◆
注目したい偉人達の青年時代(その4)
これまで偉人達の青年時代を語ってきたが、今回でひとまず区切りとする。
最後を飾るのは、ルネサンス三大巨匠のひとりミケランジェロ・ブオナローティ(1475年~1564年)である。
ミケランジェロは、イタリアのロスカーナに生まれフィレンツェで育ち、伯爵を祖とする貴族の血統正しい家に生まれているが、生活は裕福さとは無縁な地味そのものと評されてもいる。
彼が6歳の時、母フランチェスカが死亡。判事職の祖父と大理石砕石場と農場経営の父親との生活だったが、幼少時分を振り返り「私が幸運だったのは、この地の繊細な環境と乳母の乳を飲み金槌と鉈の使い方と彫刻のコツをつかむことができた。」ことと著書で述べている。
10歳の頃の彼は、学問には興味を示さず教会の装飾絵画を描写し、画家達と付き合うのが好きな少年だった。
今日でこそ15~16歳の少年時代の彼の卓越した建築技能を認める専門家は多いが、当時は誰ひとりその能力を認めなかった経緯もある。
17歳の頃に完成した「階段の聖母」の完成時期に、後援者である王族ロレンツォ・デ・メヂィチ家で働く3歳年上のトリッジャーノと口論となり、鼻骨を折られ顔面に残るキズを負う事件が起こった。負けず嫌いで暴力にも躊躇しなかった単純かつ市民的で平凡なミケランジェロの印象を現すエピソードでもある。
彼の彫刻の最高傑作「ピエタ(1499年)」と「ダビデ像(1504年)」の二作は、20歳代の作品であることは注目すべき点だ。
20歳代が彼の活動期の中心となるのだが、当時の欧州のメヂィチ家の盛衰著しい時代に、若きミケランジェロは苦労と活動の時期を過ごした。
政変によるメディチ家の追放に伴い彼も故郷フィレンチェを離れ、21歳の時にリィアーリオ枢機卿によりローマに招かれ、ローマ神話のワインの神をモチーフにした「バッカス像」の制作を依頼されるが、この枢機卿から作品の受領を拒否されるという冷酷な体験をしている。
歴史家の多くは、同時代を生きたマルティン・ルター(1483年~1546年)のローマの精神的殿堂を基本的にその基礎までも改革してしまったが、ミケランジェロは壮大と権威で数なき新しい物質的形式を建築した、ルネサンス期の典型的な「万能人」と呼ぶ人の言葉に意味がある。
1564年に没するまで89歳の長寿に恵まれたミケランジェロに関する記録は16世紀の芸術家中最大かつ深淵であり、その基礎を構築した青年期の行動が今でも話題にあるのも彼の足跡でもあろう。
1505-45