Vol.44 ◆教育家ペスタロッチの “貧しかった幼少時代に受けた実母からの教育”◆
注目したい偉人達の青年時代(その3)
旧20スイスフラン紙幣の肖像に描かれたヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi,1746年1月~1827年2月)。
スイスの教育実践家で孤児院の学長でもあった彼が23歳の青年期に、後に妻となる恋人アンナに贈った恋文から紹介しよう。
「私は衷心から国家を思い、国民のためどんな困難でも尽くす決心があり、その事業は極めて危険の多い教育であり、この希望にあなたが賛同してくれることを私は信じている。・・・・・」
実に彼の人生を巧みに描いている。
チューリヒ大学を卒業するや彼は、孤児や貧困の子供教育事業に貧農救助のための農場ノイホーフを創設した。この事業は私的な概念でなく、全くの献身的度量と努力で遂行した。50名の貧しい生徒には田畑の耕作や冬季には紡績などの仕事を課し、自らも参加し心身ともに同列での交流を図ったのだ。
そこには、彼の育ち方にヒントがあるようだ。
ペスタロッチはスイス・チューリヒで生まれたが、その苗字の通りルーツはイタリアであり、宗教改革の影響で争いを好まない新教を奉ずる人々の多くがスイスに移動した歴史がある。忍耐と勤勉は家族の感化であり、6歳で父親を失い母の膝下で女児の如く育てられた。彼の恩領と慈悲深い性格は母親の影響を受けたのであろう。更に彼には忠勤な老婆もおり、母親の愛と老婆への愛と憐れむ情が彼を形成したと多くの人の指摘もある。
ただ、小学校時代の学業は絵画等の特技の面があったにせよ、運動力には問題ありで、腕白小僧たちの彼への強烈な冷やかしの洗礼を受け、“バカのハインリッヒ!”のニックネームもあった。しかし、温和な気質の彼は決して慌てず喧嘩をすることなく、このような風評を受けてきた人間性も話題に遺されている。
この頃の教師の『自由独立、身をたて国を愛せよ!』の教えを読み解き、度重なる失敗にも挫けることなく貧児教育を貫徹してきた意欲が80歳になりスイス政府より認められ、インフェルダンの古城が彼の為に開放されたのである。
高齢時期に文部大臣が彼にある大臣ポストを提供しようとしたが、彼はその時「私は小学校教師になりたいことのみ」と告げたという。
愛弟子らは82歳の逝去に際し、師の遺言を守り無名の石碑を建てたが、彼の高徳を想う多くの国民から後に新たな石碑が建設された。
その碑文に曰く、『ノイホーフでは貧民の救済者となり、スタンツでは孤児の父親となり、プルドルフでは公衆のため新しい学校の創設者となった。イフェルダンでは人間の師となり、彼こそは実に人たるに愧(はじ)ざるの人、キリスト教に奉ずる教徒市民としての任を尽くした市民である。事をなすにあたって総ての人のためにし、決して自己のためにしなかった。』と。
筆者の推察では、ペスタロッチの人間性を描くには、彼の公徳に係る基本理念である貧しい幼児教育への大望、極度の貧困への愛着がベースであり、彼の偉業の原点には実母から受けた幼少時代の教育による自由を愛する心がある。スイス国民の強い評価として、これを特に記しておく。
1504-44