Vol.43 ◆シェイクスピアの没100年後の評価◆
注目したい偉人達の青年時代(その2)
世界的に有名な劇作家で詩人でもあるイギリス人のウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare,1564年4月26日~1616年4月23日)。
イギリス・ルネッサンス演劇を代表する人物であり、卓越した人間観察眼により内面の心理を描写する彼は、英文学界において最優秀作家との評価は誰もが認めるところだ。
しかしながら、イギリスはじめ西欧でのこの評価も実は彼の没100年後だった。このことを思うと良識ある世界文学愛好家は誰しも困惑の極みを体感することであろう。
そこで今回は、2002年にBBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第5位に選ばれた国民評価も存在し、日本では尊敬の念を持って「沙翁(さおう)」の敬称で呼ぶ者もいるシェイクスピアの青年期の物語を記すことにした。
シェイクスピアの青年期の行動には善行と愚行の混在が驚くほどに介在している。
イギリスのお国柄でさえも彼の社会人としての評価には賛否があり、人間性を含めたその結論には没後100年の時がかかり、ようやくイギリスをはじめ西欧社会で現在定着している評価に触れることが可能となったことを改めて指摘しておきたい。
幼少教育、人間性教育、史観評価など幅広く議論された結果、彼への評価の「憶測と誤審」を訂正する作業に繋がったようだ。であれば、その経過を無視しては本当の彼の真実の評価に繋がらないと考える。
シェイクスピアの母は、系統から見るとヘンリー7世に仕えた系列出身で立派な紳士の令嬢であったが、父はストラッドフォードの代官長選に選ばれた記録はあるが、屠殺業を本業とする傍ら羊毛販売等の農業家であり、商いとしては家畜の飼育と羊肉販売が主体であった。
1582年18歳の時、26歳のアン・ハサウエイと結婚するまで彼は、多彩で無手勝流で多難な人生経験を凌駕しているが、彼自身この間の人生のコメントを避けていたとされ、その詳細は100年後の詳細発表となる。
まず、10歳前の教師の評価には優劣・劣悪の特徴はなく平板で、幼少より育ったストラッドフォードでは近くの貴族所有のシカやウサギを盗んだことで鞭打たれた記録、イタズラと悪遊びで獄舎に投ぜられたとの地元の声もあり、そのため郷里に住めなくなったことからロンドンへ移住したとの話も残っている。
ただ、この話の多くは没100年後に公表されたため、彼を妬む誹謗に類するとする人も多い。
アン・ハッサウエイとの結婚後の生活はごく一般的な記録で覆われ、幸せな生活だったと言われており、それほどに偉人の少年、青年時代の動態記録の意義の根深さがイギリス大衆の文学思想に介在しているのである。
死後100年間、あれほどの賞賛を博し、また多方面から悪口を言われた人も少ない。だからこそ小生は、最高の劇作家シェイクスピアに対する評価の全貌の確認と年代別の真実の評価を今後も望みたい。
わが国でも昭和年代初めの有識者には彼を跛者(ビッコもの)と唱える人も多い。
また、「ケニルワース」のサセックスの口を借りて語ったと紹介する英国の著名作家ウォルター・スコットのコメントが存在する。陰ながらシェイクスピアへの評価の真実性を物語っているようだ。
《シェイクスピアは跛者であったと伝えられている。しかし若年期に剣を執って非情な勇者であった。・・・・》(W.スコット)と。
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