Vol.42 ◆貧困と慈母の温情に浸る「エミール・ゾラ」の努力物語
注目したい偉人達の青年時代(その1)
世紀の巨匠たちの忘れられない苦労には、文学・哲学など各分野での足跡に現在でも各層で語り継がれている例は多い。
筆者は、19世紀での思考と社会・文化貢献度の発想が現在ですら高い評価をもつ文人や哲人など、偉人の青年期を焦点に人間形成の真っただ中の生き様を現行の生活実態にリンクさせ、その人類的意義と真髄について纏めてみたので、ここに紹介することとした。
まずは、血縁、階層に翻弄(ほんろう)された少年・青年期の貧しさの中で慈母と携え成長し、難渋の生活を滲ませながら30歳にしてやっと成功した文豪エミール・ゾラの物語である。
1840年4月に、己の空想に浸り詩人肌が脱げないギリシャ系の父親と文学教育に熱心な母親のもと、ゾラはパリの貧民街地区で生まれた。そして7歳の時、父の病死により年若い母親との貧困生活が始まるのである。
そこには日夜を問わず裁縫で貧困と闘う母親の感奮興起の姿があった。17から18歳の青年期までは母親の内職傍らの家庭教育程度で成長し、19歳で南フランスのマルセイユで初めての学校に入学するが収入の低さにより1年で退学を経験している。心から経済的無力を詫びる母親と共に、息子としての不甲斐なさを詫びる姿は切実さを増すのである。
それから間もなくパリ聖ルイの学校で2度目の修学を始めるがまたも学費問題により半年で退学し、母親との自活の道を決心して税関の倉庫番の薄給ながらの生活となる。貧しい生活ながら深い母性愛にゾラの感謝の気持ちは深かった。
倉庫番をしながら夜には、大詩人ユーゴーの詩の朗読を母親とするほど勉学が進展していく。しかし、税関の仕事も解雇になり母親との苦渋の厳しい最悪のステージとなった。
3度の食に窮するばかりか、62時間一切のパンも口にしない時期も22歳の初めまで継続している。
1862年、ゾラの22歳の末、パリの出版社に週単位の薄給での職が決まったのがこの親子にとってやっと手に入れた繁栄のスタートになった。この職場での書籍発刊業務の体験から自分の著作熱をそそられることとなる。
日中は書籍発刊担当者ながら、帰宅後はペンを走らせるゾラの姿があった。
無名時代の『マルセイユの秘密』等の小説家としてのスタートを切り、出版社のご主人から高い評価を得るのだ。
それでも“商人ゾラ”と謙遜する彼は、ご主人の同情に似た配慮で書記に昇進し、しばらく広告係主任扱いの時代もあった。折しもこの頃『クロードの告白』で作家としての傑出が認められつつあった。
ここで、エミール・ゾラは“商人ゾラ”としての意識から決別し、フィガロ新聞に入社し著作作業を本格化し、『ルーゴンマッカール叢書」『ラ・テール』等が出版され、ここで一躍文壇の大家クラスの評価を受けたのである。
その時、まさに25歳の青年作家の誕生であった。
『ルーゴンマッカール叢書』の序文を要約するとそこには、“家族と社会の関係を分析する上でゾラの解析手法は遺伝、境遇の2方面から精確に研究し、一が他を生ずる関係を科学的に解く”宣言が掲げられている。
この考え方を現代風に解きなおすと、極端な写実主義の主張で、その作風は性格の描寫が巧妙で自然的かつ明暗を描破するため小細工(虚構)無縁であり、テーマの多くは彼自身が幼少より体験し実践した記録が基礎となっている。
つまり作家ゾラの総てを物語る、母親と共に苦労した縷々の足跡が表現されているのである。
「自然主義文芸の始祖であり、正義の人としてゾラの尽くした偉大なる業績は賛美すべくまた不滅だ」と評価している大正末期の評論家・渋谷春畦(しゅんけい)の述懐も懐かしい。
1502-42