Vol.41 ◆少学教育で得た“コメづくり”失敗と成功の体験
先の大戦当初の筆者が小学5年生時の貴重な“コメづくり”教育の体験話をしよう。
教育方針で体験した“コメづくり”は独特であった。
学校から与えられた耕作資料を自分で判断して耕し、肥沃にする耕耘(こううん)の地味な作業をこなし、秋の収穫には自分が作った栽培分として2~3株相当を分配もしてくれた。
校舎隣接農場で作った稲の出来栄えは粒子不在の酷い物だった。農家出身の友の出来栄えと比べ、農作業に縁のない私などサラリーマン家族派には、その差を正直にまた素直に評価された体験でもあった。
現場の教師からは、「私達は、“コメづくり”の自然条件、肥料づくり、耕作方法、収穫条件などを植物の側から必死に注文されている事実に気付くべきだ。」などコメの立場からの言葉を説明され、都市部で育った私達にはより深くより多様な技術知識の存在を現場体験から痛感させられたものである。
日本人にとって特にコメは有史以来、最高の価値ある食料であり、生命の保存の源泉として位置づけられている。
口にする全ての食品の中でも、コメの人類の需要価値は今日でも巨大であり、地球の気温と地形条件からも代用可能な材料は見当たらない。
コメについて当時、他校の低学年の教員をしていた母が、「日常に食するものを最初に理解するには、そのものを口に入れる体験より、まず自分の手で育て成長する度合いを見る体験をし、その上で食すること」と解いてくれたことを思い出す。大人になると物事を知識や経験により判断するようになるが、まず実態を把握し体感することの大切さを感じた小学生時期に原点がある。
コメの大切さはいつの時代でもその有り難さの実感から始まるのが日本の幼少教育である。
だからこそ少年期にお膳立てされたセレモニーのごとく白い大粒のコメを口にさせるより、失敗だらけで世話をしながら白い粉しか入っていない籾(モミ)に触れさせる“お米のありがたさ教育”を体感させる方が、卓越した良い経験となるであろう。
東京・駒場にある筑波大学附属中学校では現場教育用に“コメづくり”が健在であると聞く。このことからも、今でも“コメづくり”教育は、価値の高い幼少教育の原点の一つでもあることを示している。
物のない時代に育った筆者からすると、今の若い人たちには、コメに限らず口にする物全ては大勢の人達が長い時間と積み重ねた努力の上に作られていることを知り、物のある時代に生きている有り難さを感じてもらいたいものだ。ではまた。
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