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Dr.イワサキ

Dr.イワサキプロフィール
岩崎輝雄(いわさき・てるお)

1933年島根県松江市生まれ。
協会監事・学術部会代表/北海道大学 健康・予防医学 教育学博士/健康評論家。
温泉健康法として「クアハウス」、森の健康法として「森林浴」を発案、企画・運営指導に携わる。その間、一貫して厚生省、農水省、環境省の補完事業を担当。レジオネラ菌対策、シックハウス対策にも係わっている。
著書に「温泉と健康」(厚生科学研究所)、「クアハウスの健康学」(総合ユニコム社)、「森林の健康学」(日本森林技術協会)などがある。

Dr.イワサキの今月の水のお話し
協会のご意見番「Dr.イワサキ」こと岩﨑教授が、ちょっと気になること、不思議に思うこと、愉快な出来事などなど、毎月楽しい内容をお話ししていきます。

Vol.34 ◆巷で巻き起こる「体罰」問題への提言

 「体罰」について今、教育現場、スポーツ現場、また国を代表するアスリートの間でも議論が沸騰している。
 父母や教員が子供や生徒に「教育目的で肉体的苦痛を与え罰する行為を示す」こととしている「体罰」だが、残念ながら明確な定義は実はない。
 筆者は野球・テニス・水泳・スキー・登山の実践スポーツに50年余、教育・学術研究に30年を得て、一人前に指導・講演等をこなしてきたが、対応が複雑である「体罰」について、研究実務者として論じたい。
 そこで本欄は「体罰」の現状を挙げ、具体的論議に繋げたい。

 第一に幼児・少年時代の発育発達時期、第二に青少年成長期のスポーツ教育、第三にスポーツ・エリート競技者の世界と、3つのステージを理解した上で論じる必要がある。
 第一のケースでは、教育現場での「体罰」について父兄と教師に個別に尋ねても賛否は半々であること。
 第二のケースのスポーツ教育では、父兄も教師もそして当事者たちも肯定者は20~30%は存在する。
 そして第三のケースでは、プロスポーツ・アスリート達でもその必要性を否定していない層が10%相当あるようだ。
 ここで明記したいのは、「体罰」は課す人、課せられる人の認識のズレが最大原因であろうということ。

 第一のケースでは、幼児・児童に守るべきルールの徹底を具体的に示したかどうか。
 第二・第三のケースも、事前に指導者の立場から指示を明解にし、それを前堤条件として、それができない場合の対応を全て是認するのか、是認するとしても応分の罰則類の制裁の範囲・程度を決めるかは、現実の問題として存在するのである。
 しつけとか教育効果の部分には確かに課題は残るが、発育発達時期の教育分野とスポーツ分野とはごっちゃにしないことが基本だ。

 学校教育法第11条で明確に「体罰」は加えられないと明記されているが、“時と場合”によっては軽度ならやむなしの答えも現実として存在する。

 欧州の例を見よう。 これも決して一筋縄では済まされておらず、苦戦の連続が実情だ。
 イギリス幼児教育では、伝統的に他人に迷惑をかける行為には子供の手の甲が赤くなるまで平手で叩く行為があるが、1990年代から平手で身体を打つこと以外は禁ぜられ、フランス、アイルランドもこれに準じた。
 欧州では、この種の「体罰」を幼児教育時に受けたことのある子供の方が犯罪歴は少なく、学歴・収入などが高いとの結果を社会学者が報告している。日本でもこの論理の正当性は今でも否定できない。
 ただ、スポーツ関係では「体罰」の表現が実は適応していない面が著しい。コーチング・テクニックの専門分野の知能がスポーツのスキルとどう結びつくかを研究すべきだ。アスリートの世界では指導能力の低いコーチに鞭を振りたがる人が多いことは理論的にも正しい。“ばか・死ね”の愚劣な叱咤はコーチング・テクニック不在を公言しているのと同じだ。

 筆者は臨済宗の法話にある禅語の「啐啄同時(そつたくどうじ)」に注目している。啐啄同時とは、鶏の雛が卵から産まれ出ようとする時、中から卵の殻をつついて音をたてる。これを「啐(そつ)」と言う。その時、すかさず親鳥が外から殻をついばんで破る。これを「啄(たく)」と言う。そして、この「啐」と「啄」が最適のタイミングで相互に協力して殻を破る共同作業が可能となるのだ。
 この価値ある対話の妙を人と人、人と物の多彩な事象に当てはめるためには、万遍ない日頃の観察をベースにして初めて効果が生まれるのだ。

 学校教育と社会・スポーツの世界は少し趣が異なるようだ。
 まず体力で自分の責任を果たした上で、スキルとかテクニックを体力に応じて具備するため、叱咤や激励だけでなくハッスルとか頑張りを体験し教える過程がある。やるやらないの作為・不作為には叱咤や激励と心構えの未必の故意が必要だ。「体罰」の罰の存在は実はスポーツには適当な言葉がないのが実態だ。過失、小過失という法律の前提にある犯罪のようなルールとか流れとは異質で、スポーツ・トレーニングには犯罪で言う犯行とは異質である。つまり「体罰」の表現に無理があると言いたい。
 ただ、ゲームを前提とするスポーツにはルールがあり、それを守る義務があり、不履行には相応の罰則がある。ゲーム推進上の言葉の反則と、トレーニング上での不履行や反則行為を罰するのは別の判断であるのに、日本語の「体罰」には相違がない。そこに混乱がある。
 筆者は、幼児・生徒の発育発達上には事前に諸基準を話し合い、基準を示した上で暴力でなく説諭とか“立たす”といった追加役務を課すなどのペナルティの余地は、イギリス等の外国の例からも是認している。ただ、青少年スポーツとか社会スポーツでは、コーチング・テクニックの専門家の不足が目立つとも思う。
 世界の例でも素手や器具での殴打による暴力を許す傾向は去った。しかし今、「体罰」を論じているスポーツ現場の指導者の半数は、指導すべきタイミングでの厳しい叱咤の必要性を説いている。
 問題は指導サイドにとっては原則論でしかないが、平素から父兄、生徒・学生・プレヤーサイドとの交流を密にし、コミュニケーションをとることが基本だ。
 だからと言って、「体罰」が論ぜられる3つのステージの対象者に、教育上の団体行動の掟やスポーツ競技の心構えよりも、サークル活動に見られる遊び行為としての期待が強くあるならば、そこには教育指導の機関もスポーツ組織も必要としないだろう。競技スポーツでは、汗と涙と辛苦をともにした仲間で勝利を得る喜びがあるから、指導者も生徒・学生・プレヤーも不快な感情部分さえも懐かしい想い出にできるメリットがあることは、多くが経験しているところだ。「体罰」理論は一筋縄ではいかない。

 幼児・生徒の教育現場では時間をかけ、スポーツ育成現場ではメリハリや強弱のある指示をもってタイミングの良い褒め言葉、叱責、激励と成長させてやりたいという指導者の気持ちのコンビネーションで、技術の練磨をすべきと思う。

 「いつも君は若々しくて綺麗だよ!」とワイフに言う毎日だが、ミエミエの熱い言葉に誠意と真心を感じてないのか、効き目も色あせている今日この頃だ。ではまた。

(1303-034)